【#男女共同参画事業は必要だ】

【#男女共同参画事業は必要だ】

先日、twitterでこんなつぶやきをしたところ、明らかにいつもよりも閲覧された回数が増えていました:

「成人式で晴れ着に墨汁をかけられたり、若年女性支援への公金による助成に関連して罵詈雑言が並んだり、女性の国政候補者の転籍に本筋とは違う批判が並んだり…年始からミソジニー(女性嫌悪)があまりに多く、今年が心配。

#男女共同参画事業は必要だ」

 加えて気になっているのが、年明けから急に、「男女共同参画事業は不要である」という意見を、現職の地方議員も含めた多数の方が、実名で記しているのを目にするようになったことです。それぞれのかたがどのような見地から、不要であると論じているのかは様々なのだと思いますのでここでは触れませんが、「なぜ男女共同参画事業が必要だと私が考えるのか」を、取り組み主体として主に地方自治体を念頭に置いて、改めて論じたいと思います。

■1 用語の定義

 議論に入る前に、まず、ここで論じたい「男女共同参画事業」とは何なのかを明らかにします。日本国において、男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」(男女共同参画社会基本法第2条)と定義されています。同法は1999年に制定され、現在の日本のジェンダー平等社会実現を目指す基本方針となっていますが、そもそもこの男女「共同参画」という不思議な日本語が誕生し、定着した理由については、さらに前、1985年に制定された男女雇用機会均等法の制定過程にその理由の一端が見られます。

 いまの30代以下からしたら信じられないような話ですが、男女雇用機会均等法制定以前、女性の労働については、労働基準法の定めにより、時間外労働・休日出勤・深夜労働等に制限がありました。「あなたは女性だから、22時~5時は働いてはいけません」なんて言われたらびっくりすると思いますが、そういう法律になっていました[1]。そして、労働基準法の制定は、帝国議会の最晩年である1947年ですが、ここで規定された女性に不利な内容は、大した見直しもされず、実に30年以上が経過しました。

 この、30年以上棚ざらしにされた女性差別にようやくスポットライトが当たったのは、1979年に国連女性差別撤廃条約が採択されたことがきっかけでした。この条約は、女性に対するあらゆる差別を撤廃することを約束するものです。そして、この条約を日本国が批准するためには、日本国内における女性差別の撤廃が必要でした。その一環として、女性を差別する規定がある労働基準法および1972年制定の勤労婦人福祉法を改正する必要がありました。

 ところが、この改正にあたっては、大きな抵抗がありました。男女雇用機会均等法制定に、労働省婦人少年局長として奔走した赤松良子先生(敬意をこめて)は制定時のことを、「そもそも当時の大臣が、女性は外で働いたりせずに家庭にいるのが幸せ、という考えの人だった」「(雇用機会均等法が)罰則付きの強いものになることを警戒する経営側と、平等と引き換えに女性労働者の保護が後退することを警戒する労働側の両方から挟み撃ちにあっていた」[2]と振り返っていますが、政府も、官僚も、政治家も、経営者も、労働組合すらも、国際的な女性差別撤廃の潮流に合わせるなど無かったわけです。

 かくして、各方面の反対を軟着陸させる方法を探ることとなります。当時新聞記者として均等法の制定を取材し続け、のちに男女共同参画会議議員として6期12年を務められた鹿嶋敬先生(敬意をこめて)は、「男女雇用機会均等法案が企業の合意を取りつけることができたのも、一つには同法制定の三年前、一九八二年に開催された男女平等問題専門家会議で、『男女同数を採択すること、管理職の半数は女子とすることなどの枠を当初から設定するような、結果の平等を志向するものではない』という否定宣言を採択したからだ」と、男女雇用「平等」という表現が忌避された理由を論じています[3]。その後、男女雇用機会均等法制定から14年の時を経て男女共同参画社会基本法は成立します[4]が、この過程で「男女共同参画」という言葉が誕生した背景には、こうした女性差別撤廃に対する各界の強い抵抗と、それに対し屈することなく女子差別撤廃条約の約束を誠実に履行しようとする方々の努力の結果であったことがわかります。

 以上のことから、私がここで論じたい「男女共同参画事業」とは、国際的な女性差別撤廃の潮流があるにもかかわらず日本国内で数々の抵抗に遭いながらも、男女共同参画社会基本法のもとにようやく日本国内における法的正当性を確立した事業を包括的に指します。

 なお、男女共同参画と「ジェンダー平等」は何が違うのか?という疑問もあるかと思います。各自治体ではすでに、「ジェンダー平等」という概念のもとに、男女に分けられない多様な性の在り方も包含する条例を定義し、事業を執行しているところも多く存在します[5]。日本の中央官庁では内閣府男女共同参画局が担当の部局であり、この部局名の英語訳は「Gender Equality Bureau Cabinet Office」なので、ジェンダー平等≒日本の男女共同参画 とも言えるかもしれませんが、男女「共同参画」という不思議な日本語の誕生経緯と、ジェンダー平等の包含する範囲の広さを考えれば、今の日本では「男女共同参画」を、より「ジェンダー平等」に近づけていかねばならないと、私は捉えています。

 こうした考えを整理したうえで、本論では、ミソジニー(女性嫌悪)に対する危機感から、地方自治体の男女共同参画事業がなぜ必要であるのかを論じたいと思います。

■2 男女共同参画事業の法的・政治的正当性

(1)法律で決まっているから

 地方自治体が男女共同参画事業に取り組む法的正当性は、簡単に申し上げれば、「法律で決まっているから」といえます。男女共同参画社会基本法成立以前、地方自治体の男女共同参画事業は、他の事業と比較した際に後ろ盾の乏しいものでした。基本法の成立は、地方自治体の男女共同参画事業に対して「基本理念にのっとり、男女共同参画社会の形成の促進に関し、国の施策に準じた施策及びその他のその地方公共団体の区域の特性に応じた施策を策定し、及び実施する責務を有する」(法第9条)という形で、取り組む法的正当性を与えました。政府が「必要な法制上又は財政上の措置」(法第11条)を行う中で、地方自治体も男女共同参画計画を「定めるように努め」(法第14条第3号)つつ、「男女共同参画社会の形成に配慮」(法第15条)しながら各種事業を行うことになっているため、そもそも現行法のもとにおいて、「男女共同参画事業が必要か不要か」という問いが見当違いといえます。

 しかし、「地方自治なのだから、法改正して、男女共同参画事業に取り組む責務を弱めて地方の独自性に任せればいいではないか」という反論があるかもしれません。果たして、法改正(改悪ですね)による「男女共同参画事業不要論」は、妥当性を持つのでしょうか?

(2)国際社会の普遍的価値だから

 この問いに対しては、「国際社会の普遍的価値だから」と再度反論ができます。男女雇用機会均等法の制定過程で触れた通り、日本は女性差別撤廃条約を批准しています。条約とは、文書による国家間の合意です。国際社会に対し、条約の批准を通じて日本自らが示した男女共同参画への意思を、みずから反故にするような法改正(改悪)は、国際社会の理解はおろか、国内での合意すら得られないと考えられます。地方自治体・日本国・国際社会と、それぞれの視点で検討してもなお、地方自治体が取り組む男女共同参画事業の必要性は些かも揺るぎません。

 しかし、ここでも新たな反論が生じるかもしれません。例えば「法的正当性を有することは、必ずしも事業の執行にはつながらない。十分な財源が無い場合、事業執行がそもそもできない」という主張が考えられます。男女共同参画社会基本法は、あくまでも国家の政策を方向づける基本法であり、必ずしも具体的な予算を伴う事業を義務付けるものとならない場合もあります[6]。果たして、「責務を有する」地方自治体は、「男女共同参画事業は必要だ」と認識しながらも、男女共同参画事業に取り組まずにいられるのでしょうか?

(3)「女性のいない民主主義」で決められたことに対し、問い直す必要があるから

この問いに対しては、政策過程に女性が圧倒的少数である歴史的・現代的事実を踏まえて、男女共同参画事業が先送りされることの問題点を見つめなおすべきだといえます。前田健太郎先生の『女性のいない民主主義』(2019年)は、政治学で「主流」とされてきた学説や政治現象に対してジェンダーの視点から批判を加え、従来の政治を見直そうと試みています。前田先生は、アン・フィリップス『存在の政治』(1995)を取り上げ、「有権者が自分の好む公約を掲げる政党に票を投じ、政党がその公約に従って政策を実行するという意味での理念の政治(politics of ideas)では不十分」であり、「階級、ジェンダー、民族などの要素に照らして、社会の人口構成がきちんと反映されている議会」のような意味での代表=描写的代表(descriptive representation)が確保された政治としての「存在の政治」が必要であると論じています。単純に言えば、女性の意見を政策に適切に反映するには、一定以上の数の女性議員が必要であるとするものです。この考えに立てば、仮に、女性が圧倒的少数である政策過程において「男女共同参画事業は必要だが、今はまだ取り組まない・取り組めない」と決定された場合、それは政策決定として適切なのか、問い直さねばなりません。

 このように見ていくと、現時点での財源の有無よりも、財源を獲得・創出する政策過程そのものが「女性のいない民主主義」になっていることが課題であると気づきます。たとえ、財源があったとしても、本当に男女共同参画事業が実施されるのか疑問視されます。例えば、内閣府は、地方自治体の男女共同参画事業を推進するための「地域女性活躍推進交付金」を例年国で予算化し、交付金として示しています。この交付金に対して手を挙げる意思決定のボールは地方自治体側にあります。ジェンダー不平等な状況は地域によって異なる部分があり、地域に合った事業を考える上で国が事細かに事業内容を規定すべきとは思いませんし、地方自治の観点から国が地方に義務付けるものでも、国の事業として地方が肩代わりするべきものでもないと思いますが、「女性のいない民主主義」化した地方自治体が、この交付金に対して、忙しい中、手を挙げるだろうか?と考えてもらえればと思います。

■3 おわりに

 以上のように、男女共同参画事業は、(1)法律で決まっていて、 (2)国際社会の普遍的価値であり、 かつ(3)「女性のいない民主主義」で決められたことに対し問い直す必要がある ため、必要であると私は考えています。

 ここまでお読みいただいた方には伝わるかもしれませんが、これは、私自身に対する批判でもあります。「男性の政治学」を問い直す必要性を、「男性の」「政治家」である私が論ずる滑稽さを感じられた方もいらっしゃるかもしれません。私が、社会における女性の席を奪ってしまっている事実への批判は受け止めねばなりません。地方自治の中でジェンダー平等を目指す取り組みの優先順位を上げられるよう、引き続き取り組みます。


[1] 労働基準法(昭和22年4月7日法律第49号)第62条「使用者は、満十八歳に満たないもの又は女子を午後十時から午前五時までの間において使用してはならない。」

[2] 日本経済新聞,2021年12月21日,朝刊

[3] 鹿嶋敬 2017 「男女平等は進化したか 男女共同参画基本計画の策定、施策の監視から」 新曜社

[4] なお、内閣府によれば、「男女共同参画」という言葉自体は、1991年4月10日の婦人問題企画推進有識者会議の提言で登場し、同年4月19日「西暦2000年に向けての新国内行動計画(第一次改定)」の取りまとめに当たっての事務連絡で「参画」を用いることを要請し、同年5月に決定された同行動計画でその副題を「男女共同参画型社会の形成を目指す」とすることで、登場した。

[5] 横須賀市も「横須賀市男女共同参画及び多様な性を尊重する社会実現のための条例」を2019年に施行しています。

[6] 基本法の抱える課題については、塩野宏「基本法について」 2007年 日本学士院紀要 第六十三巻第一号 に詳しい。