【そととなかをつなぐひと】

【そととなかをつなぐひと】

地元横須賀市に戻るまでの約5年間、福島に住み、一般社団法人Bridge for Fukushimaという団体で復興支援、地域の若者の社会活動支援、県立高校でのキャリア教育事業なんかをしていました。今も同団体の理事として時折福島を訪れ、代表理事と方向性について話したり、日頃事業を運営してくれるスタッフのみんなと話したり、事務所に集まる高校生・大学生と話したり、「災害後の地域のその後」に関する自身の中でのアップデートにもつとめています。現地にいないとわからなくなることはどうしても多いです。

浪江町では、ゲストハウス「あおた荘」の副管理人や、復興庁の被災地支援コーディネート事業などに取り組む友人・小林奈保子さんと近況交換。

南相馬市小高区では、小高ワーカーズベースで働く友人・渡部尚紘さんを訪ねました。小高ワーカーズベースとは、小高区出身の和田智行さんが、一時は避難指示下に置かれ人口がゼロ人となった小高区を復活させるべく立ちあげた、いわば地域復興に関する拠点です。

二人とも、福島に来てから活動を共にした「仲間」ともいうべき現場の人間です。そして、二人には、地元は福島だけれども、現在の活動拠点は生まれ育ったところと少しだけ離れたところ、という共通点があったりもします。

二人とも口を揃えていたのは、「店が増えて、人が増えたなぁ」ということでした。南相馬市小高区は2016年7月12日に避難指示区域のうち人口のほぼすべてが居住するエリアの避難指示が解除され、浪江町は2017年3月31日に、避難指示区域のうち人口の約8割が住む市街地エリアの避難指示が解除されたので、いずれも、居住可能となって既に数年が経過しています。人の営みは、少しずつですが着実に戻り、「日常」が戻り始めています。と、いうより、もはやこれが震災後の日常なので、何が「日常」なのかという問いはかなり難しいものがあります。

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そしてまた、「日常」を構成する要素とは何なのか、というと、それもまた人によって違います。私の場合は、事務仕事を集中してやる際にコーヒーを結構飲むので、味や銘柄に詳しいわけでも何でもないですが、おいしいコーヒーに出会ったりすると少し日常が明るくなったりするぞ…などと考えながら、やはり同世代の起業家である森山貴士さんのコーヒースタンド「オムスビ(Odaka Micro Stand Bar)」を訪れました。

森山さんは、私と同じく、「よそもの」(=福島出身者ではない)として2014年から本格的に福島入りしました。「よそもので事業やっていくからこそ、行政運営にも、感度高くなる。地元だと、そこまで関心が向かないかも。」と森山さんが言っていたのが、ああ、なんだか、わかるなぁと思いました。地元とは、生まれたときから既にそこにあるものなので、取り立てて地域の輪郭を意識的に把握しようとせずとも、特段何とも思わない。けれど、住んだことのないまちで、事業をやろうと思えば、そのまちをどのような枠組みで捉えたら、そのまちが理解できるかと必死に考えるわけで、自分の住む集落の視点や、市町村行政の視点や、商圏の視点や、全国における位置づけなど、様々試す中で、やはり行政の動向はしっかりチェックしようという気にもなってくる…という感じでしょうか。私も福島で経験があります。

今の私の仕事は、間違いなく、「横須賀市議会議員」です。3,705票をいただき、市民のために、市政を良くするために、議会を構成する一員として働く。

そのうえで、「横須賀市議会議員」としての自分が、「横須賀において、どのような役割を果たすべきか・果たしたいのか」という問いは常について回っていて、そんな話をしに南相馬市鹿島区の若松真哉さんを訪ねました。若松さんは若松味噌醤油店の10代目です。東京でアパレル企業に勤務したのち、28歳で地元に戻り跡継ぎとして味噌づくりを始め、6年目に大震災が起こりました。

私は、24歳の時福島の復興に携わり始め、ツアーの中で語り部をしてくれるかたを探していました。「首都圏の人に沿岸部を実際にみてもらい、復興に取り組む人の話をきいてもらう。これを繰り返すことで、きっと復興の速度があがるんです」というようなことを言いながら、店を訪ね、そんな勢いの私の話を聞いてくれたのが、若松さんでした。今となって思い返すと、まちの「そと」の目線も「なか」の目線も持ち合わせた若松さんだったからこそ、受け止めてもらえらんだなと、感謝でいっぱいです。

「それまで回っていたものが、回らなくなってきた。これは全国の田舎で同時に起こっていることなんだなってことが、わかってきました。それまでは、流れで、できていた地域の様々なことが、もはや成り立たない。土地のちからが弱くなってきているから、PDCAをちゃんと回して、って意識してやらないと、回らないぞと」

若松さんの言葉には、なんというか、穏やかな強さがいつもあります。地元の味噌屋・消防団員・商工会会員など「なか」における様々な役割をお持ちでいつつも、どこか俯瞰的な視点で、少し先の地域の未来を見ながら、でもやっぱり仕事は職人気質で一つずつ絶対に手を抜かない。若松さんが「土地のちから」という言葉で表現したものは、私なりに解釈すると、その地域固有の人間関係・文化・技術が持つちからであって、それが弱くなっている現実をまず受け止めて、じゃあ何をやらなければならないかと考えると、それは、一つ一つの手順を丁寧に確認し、知らない人には伝え、計画をひいて、実行して、結果確認するところまでやることなのだと。私も深く同意します。民生委員の欠員が常態化し、町内会の役員はなり手が無く、子ども会が次々と解散するところまできている昨今の地域社会で、自分が地域の一員だと自覚する機会は、意識的に自分が地域に出向くか、熱心な人が意識的に何かにつけて手を打っていくかでしか、確保し得ません。

若松さんのような、「なか」にしっかりと根を張り巡らせていつつも、「そと」からの良い流れには柔軟に対応してくれるかたが地域にいると、良い人材の流動性が生まれて、良質なコミュニティができていくことを、私はこの7年間の中で強く感じています。良い人材が、地域を自由に出入りする。その時、手ほどきをし、受け止め、起こることを見守り、必要な時には手助けするのだけれども、基本的にはその人は前には出過ぎない。沿岸部を見ていて、復興が良い形で進んでいると感じるところには、必ずこうした役割の人がいて、そして良い人材が絶えず出入りしていました。

私自身の横須賀における役割、に置き換えて考えれば、まさにそんな役割を果たしたい、果たすべきなのではないかと思っています。

そしてさらに、その役割を果たす人を増やすこともまた、私の仕事であり、それがインターン生の受け入れだったり、議会の仕組みについて私よりも若い世代に伝えたり、各人の「やりたい!」を全世界で活躍する人につなぐことだったりといった形で、活動として具現化していくべきものなんだな、と再確認しました。出過ぎず、ひっこまず、地道に着実に、やりきる。